このわたしが美人からの頼みごとを断るわけがない。「麗迦さんが、あんたに着物を選んでほしいって言ってたよ」と母から聞いて、すかさず彼女にLINEを送って呉服店へ付き添う約束をした。ただの着物趣味の延長で美人の着物を選ばせてもらえるなんて、願ってもない幸運だ。
麗迦さんは母の友人で、それこそ赤子のときから三十代の今までずっと世話になっている。こんな片田舎の地元にいては勿体ないくらいの美人で、わたしは子どもの頃から品のいい彼女が大好きだった。麗迦さんはときどき、母経由でわたしにちょっとした頼みごとをする。どうやらそれは、彼女に娘がいないことと無関係でないらしい。この時代にはもう口にするのも憚られるかもしれないが、麗迦さんは幼いわたしを連れた母と会う度、「羨ましいわァ、女の子がいて……」と言っていた。彼女には三人の息子がいる。羨ましいというのはあながち冗談ではないようだ。そもそも母親の友人とLINEでやり取りしている娘はそう多くないだろうし、わたしはさながら“レンタル娘”として彼女のもとへ派遣されては、時折こうして些細な用事に付き合っているのだから。
呉服店へ行く約束の日、わたしはクローゼットからいちばん上等なバッグと一張羅のワンピースを引っ張り出した。整髪料で毛先を撫でつけ、きりっと真紅のリップを引く。べつにわたしの着物を買いに行くわけじゃない。ただの付き添いなのだから、気負って装う必要はないのだ。それでも綺麗でいようと足掻くのは、着物姿の麗迦さんを称賛するための、わたしなりのけじめなのだった。わたしは美しい人を褒め称えるとき、先ず自分にできる最大限の努力をしたうえで称賛の言葉を口にすることに拘っている。なんだかそのほうが、「貴女は美しい」という言葉の真実味が増すような気がするからだ。「美しい」と人様へ伝える行為は、それくらい真剣でなければならない。自分の言葉に責任を持つためにも、この身をもって美しさに対する意気込みを表明するのがポリシーなのである。
麗迦さんは、約束した時間の一分前にやって来た。すらりとした背丈、艶のあるセミロングヘア、上質な生地のスカートスーツ。決して派手な装いをしているわけではないのに、まるでこの街で彼女以外のすべてがモノクロになってしまったかのように、必然的に目につく存在感を放っている。「お待たせ」と微笑む麗迦さんの手には、わたしのバッグよりも一段と上等な、しかし必要以上に主張はしない、一流の召使いのようなバッグが控えている。そんな彼女と並んで歩くと、わたしのバッグは目上の貴婦人に適切な敬意を示しながらも気取りすぎない、若い女の等身大の持ち物になった。歳上の美女はこちらの少し背伸びした窮屈な装いをほどいて自然体に変えてくれる力を持っているから、一緒にいて心地いい。端から見たら親しげに話すわたしたちはできすぎた母娘に見えるだろう。それでいて、娘のような女は母のような女へ敬語で話すのだから、さぞかし奇妙な関係に見えるに違いない。
麗迦さん行きつけの呉服店に入ると、すぐに二本の反物が出された。光沢感のある銀鼠のお召縮緬と、葡萄茶の飛び柄小紋。「どっちがいいか迷っちゃって……ミイちゃんの意見を聞かせてくれない?」 店員がそれらの反物を机に広げて見せた瞬間、すぐ麗迦さんに似合うほうがわかった。しかし、そこで一旦迷うのが買い物の楽しさの本分なので、背筋を伸ばして椅子に腰かけると、店員が麗迦さんに着装する様子を眺めた。
こっくりとした赤紫の地に、細い線で描かれた写実的なミモザが優雅な余白をとって配置されている。遠目に見ると、可憐な花の色でぽつりぽつりと明かりが灯るかのようでもある。だが、称賛とは自分のために多くを語ることとは明確に違うと思うから、敢えて「すっごく綺麗ですよ!」と素直な感想を述べた。「よかったら、麗迦さんのスマホで写真を撮りましょうか。ご自身でも見たらわかりますよ。こっちのほうが、顔うつりがずっと綺麗なんです」
こうしてわたしが彼女を褒める合間に、店員はセールストークを挟み、帯を取っ替え引っ替えする。わたしはその無数の帯を容赦なく篩にかけて、とりわけ麗迦さんに似合う帯のほかはきっぱりと断った。どの帯を巻いても美しい人にだって、特別にふさわしい帯は存在するものだし、本人にはそれを身につける権利がある。だから、本人の美しさに甘んじて周りの人間が妥協するのは断じて許されない。
気を利かせた店員が「たとえばこんなアイテムを入れて冒険しても面白いですよ」と、主張の強い色柄の帯揚を彼女の胸元へ当てる。すると麗迦さんは小さく首を振って「私、ふつうの色がいいんです。冒険とかそういうのは苦手なの」と言い、優しげな眉を少しだけ下げて申し訳なさそうに笑った。ふつうの色がいい。その言葉は、まさに麗迦さんの麗迦さんたる所以といっても過言でなく、わたしはそのあまりに飾り気のない自信に大いに畏れ入った。行きつけの呉服店で「ふつうじゃつまらない」と豪語し、いつもどこか捻ったものに脳みそをくすぐられて気分良くなっている自分には、「ふつうの色がいい」と言う勇気がまったくない。わたしは生涯、麗迦さんの好きな色を自ら手に取ることはないのだろう。わたしにはわたしの好きな色がある。でもわたしは、ふつうの色を選ぶ麗迦さんが好きで、その麗迦さんが選んだ色ならば、ふつうの色も好きなのだった。
後日、麗迦さんから付き添いのお礼にDiorのリップをもらった。どんな人がつけても自然と血色がよく見える、ベーシックなヌーディーカラー。そもそもわたしはDiorの化粧品を使う類の女ではないから、この人気商品を使うのも初めてなのだけど、それとこれとは話が別で、わたしは麗迦さんからDiorのリップを贈られてとっても嬉しい。「お着物、どうでしたか?」と訊いて、着姿の写真を見せてもらう。一点の曇りもないスマホの画面のなか、わたしの選んだ着物を身につけた麗迦さんが、華やかなパーティー会場で同年代の女性たちと並んで写っている。言うまでもなく彼女の着物姿はひときわ目を引いた。「やっぱり思った通りだ、いやあ綺麗です、ほんとうに綺麗ですよ……」と言うと、彼女ははにかんだように「ふふふ」と笑う。そのときふと第六感が妙な知らせをよこして、もしかして彼女には日常的な称賛が足りていないのではないか、と心配になった。彼女の夫は、息子たちは、わたしよりも麗迦さんのずっと近くにいる人たちは、常日頃から彼女にふさわしい言葉を投げかけていないのではないか。麗迦さんの日常の実態をなにも知らないくせに被害妄想が止まらなくて、もしそうだとしたら彼女を褒めずにいるすべての人間はとんだ怠惰な体たらくのわからずやだ、と勝手に憤った。
麗迦さんが母に送ったLINEには「まるで娘との買い物のようで楽しかった」と書かれていたそうだ。わたしは、たった一瞬でも美しい人が自身を娘のように思ったことが嬉しくて、天にも昇るほどの誇らしさに満たされる。しかし、だからといって彼女のように美しい母親が欲しかったとは思わない。わたしたちが美しい関係でいられるのは、偽物の母娘だからだ。それは現に、わたしと母の関係を見ているとよくわかる。たとえば親子で買い物に出かけて、調子に乗った母が「うちら姉妹に見えるんじゃない?」と言ったとする。すると、わたしはすぐさま「ア? 見えるわけねぇだろうが!」と北関東の早口で母をなじるだろう。麗迦さんにはこんな醜い世界をずっと知らずにいてほしいから、もしかしたら彼女には娘がいなくてよかったのかもしれない。
「でもあんた、いつも真っ赤なリップばかり使っているのに、こういう色、使うの?」
麗迦さんにもらったDiorのリップをしげしげと眺めながら、母が言う。自分に似合うリップの色なんて、もう三十三年も考え尽くしてわたしが誰よりも知っているのだから、今さら他人から選んでもらわなくたっていい。そうじゃなくて、わたしは麗迦さんが選んだ、ふつうの色のDiorのリップが欲しいんだ。なんて母に言ってもどうせ理解されないとわかっているから「まあ、いいのいいの」といい加減な相槌を打っておく。