金時計

わたしを溺愛していた祖父の腕時計を……と書き始めようとして、自分は死んだ人を書いてばかりだ、とふと振り返る。思えば父だって、死んでしまうまでは進んで書く対象ではなかったはずだし、それどころか生前は親子としてろくな対話もしていなかったではないか。あとからあれこれ書くくらいなら、生きているあいだにもっと多くの言葉を交わせばよかったのに、と思わないわけでもないのだけど、ひとには遠く離れてみて初めて出てくる言葉だってあるわけで。

――なんて聞こえのいいように言ってみたくもなるのだが、わたしはいつも人と近づくのを避けたがって、そのくせ自身の記憶のなかにいる人にだけ、二度と縮まらない距離に安堵しては、途端にべらべらと親しみをもって話しかけ始めるという身勝手ばかりしている。

それでいうと、わたしが人生で初めて死に別れた人間である祖父こそ、とりわけ親しい人物だといえよう。祖父は、わたしがひとの生死を理解するよりずっと前に彼岸へゆき、気づけばいなくなっていた。だから、祖父を亡くした幼少期から今日に至るまで、古い記憶の断片や親族がこぼした噂話だけを頼りに、穴ぼこだらけの祖父像を築き上げては、密かに生きる楽しみとしてきたのだ。祖父は間違いなく、わたしが人生でもっとも影響を受けた人物のひとりだといえる。

祖父は初めての内孫であるわたしを溺愛し、欲しがったものはなんでも惜しみなく与えた。ハローマックで指さしたすべてのおもちゃを。ほかの大人には内緒だといって、イクラや塩辛など酒のさかなを。つないだ手を振りつつ歌った「靴を鳴る」の唱歌を。幼い頃の記憶の大半を、祖父に甘やかされた思い出が占めている。

そうだ、これまでに幾度「わたしは祖父に溺愛されていた」と書いてきたか。同世代が親になる三十代に差し掛かり、やがて同世代が祖父母になるであろう年代まで見渡せるようになってきた。子どものいないわたしには、死んだ人のことを考える時間がいくらでもある。このままでは同世代が祖父になった年にも、平気で「わたしは祖父に溺愛されていた」と書いているかもしれない。

死んだ人ばかり書く。それは必然的に、同じ記憶を、幾度も繰り返し、になる。でも、好きなひとのことくらい、幾度書いたって構わないじゃないか。そう開き直って、わたしを溺愛していた祖父の腕時計について、書きとめておく。


祖父は高級時計を着けていた、という勘違いはいつから始まったのか。

実家のどこかに祖父の腕時計が残されていると、いつか母から聞いたとき、それがどのメーカーのどのモデルであるのかと詳しく訊ねはしなかった。ただ、まだ物が残されているという事実から、いい品物に違いないと考えたのだろう。

「欲しい」とは言わなかった。祖父のことをもっと知りたいだけなのに、金目のものを欲しがっているように見えてはたまらないと思い、関心がないふりをしていた。

それからというもの、わたしのなかの祖父がずっしりとした金時計を着けるようになった。あるときは「いつかおじいちゃんのような時計を買えるのかな」と憧れを抱いた。またあるときは、分相応な時計を身に着けながら「わたしはわたしの好きな時計を買うから、おじいちゃんには生涯遠く及ばなくても構わない」と敢えて反発してみて、祖父の偉大さに浸って遊んだ。


「おじいちゃんの腕時計って、どんなのだったの?」

実家に帰って、ほんの思いつきで母に訊ねる。自分はいずれそれを訊かずにいられなくなるだろうとは思っていたが、それが今日だとは思っていなかった。すると母は、その場で亡き父の部屋を探ると、すぐさま件の腕時計を差し出したのだ。

「はいこれ。家を片づけたときに売ろうと思ったら、業者から買い取れないって言われたの。だから置いたままになっていて――」

念のため型番を検索してみると、過去にオークションサイトで数千円程度で取引された履歴が見つかる。それは「欲しい」と口にするのも憚られるような金目の時計などではなかった。

CITIZENのクォーツ時計。シャンパンゴールドのダイアルに、イエローゴールドのベルト。やっぱり金一色って惹かれるよね。防水で、万年カレンダー付き。慣れると日付と曜日が見られないのが不便になるし、防水でないと怖くて着けられないもの。

手首を通してみると、余ったベルトがだらりと垂れ下がる。大きい。でも、わたしが愛用するフルメタルのG-SHOCKと比べると、小鳥のように軽い。祖父の腕時計は、想像よりも遥かに軽くて、どこかわたしの腕時計と似通ってもいた。


なんでも与えてくれたひとの腕時計の軽さ。与えられるだけ与えられてわたしは、かつて祖父がそうしたように、欲しい物をなんでも手に入れようとする。

だがそこで、お前も与える側に立てだなんて、どこでも手に入るようなつまらない教訓など得るわけにはゆかない。愛はゼロサムゲームではないのだ。別の誰かに与えて、相殺した気になって、与えられすぎたものの重さから目を逸らすな。逃げ道も失って甘受すればいい、その身に余る、耐え難いほどの重さを。

外したベルトコマ六つ分から浮かびあがる掌の大きさ。息を吹き返した金の小鳥は、新たな主人と手をつなぐ。


お手つないで 野道を行けば

みんな可愛い 小鳥になつて

歌をうたへば 靴が鳴る

晴れたみ空に 靴が鳴る