三が日、甥っ子に誘われてごっこ遊びをする。義父母がプレゼントしたブロック遊びのゾウとキリンに、遥かなサヴァンナの風景が描かれたボード。彼はゾウ、わたしはキリンになって、あるサヴァンナで暮らしていた。
サヴァンナでは次々と事件が起こる。動物たちの水飲み場が干上がってしまう。貴重な食糧である花をうっかり食べ尽くしてしまう。大きな石が燃えあがって近寄れない。ゾウはどんな困難な状況に直面しても、一つずつ策を練っては、キリンを率いて問題を解決してゆくのだった。ところがあるとき、ゾウが叫ぶ。「地震だ!」。ブロックの大木が倒れて、ゾウとキリンはサヴァンナで暮らせなくなってしまう――。
甥がそう叫んだとき、意表を突かれて言葉に詰まった。先日の大きな地震と、ないしそれらに関するいろんな形の情報が、埼玉県で親族とおせち料理を囲む子どもの意識にもこれほどはっきり刻まれているとは。
キリンは震えながら「どうしよう、こわいよ」と言う。あのとき、どんなことが起こり、わたしたちはどんな気持ちになったのだったか。サヴァンナの倒木は、体の大きなゾウとキリンの力を以てしても、そう簡単には起こせなかった。ゾウとキリンは「こわいよ」と言い合いながらも、倒れた木を再び起こす方法をいくつも考えた。上手くゆかなくて助けが必要なときは、何度も110番通報をした。やがてゾウとキリンは花を食べて腹を満たし、二人で力を合わせて倒木を起こす。「僕たちのサヴァンナだ」。ゾウはサヴァンナの隣地を開墾し、動物専用の立体道路を建設した。
人が物語の力を借りて心を治癒しようと試みる瞬間に立ち会った気がした。というのも、快方へ向かったのはわたしのほうなのだ。子どものために一緒に遊んでいるつもりでいて、「どうしよう、こわいよ」と震えるキリンが、この数日間でぐっと飲み込んだ言葉を代わりに伝えてくれた。一方ゾウのほうは……ただ、もらったばかりのおもちゃで近くにいた大人と遊んでみたかったのではないだろうか。