【ヨガ日記】自分にも優しく

久しぶりの日記になりますが、その間わたしとヨガには、実に色々あったのでした。珍しく多忙になり、「こんなに沢山できない!」と弱気になったとき、思い切ってヨガの練習を諦めてしまったのです。最低でもこれだけは取り組むと決めていた練習を放棄して、週末にスタジオへ行くのもお休み。代わりに、太陽礼拝を3回と、数分間の瞑想だけ続けました。もう少し頑張れたはずと惜しみながら、現実には時間も体力もありません。これが自分の限度なのかと、良い意味で思い知りました。

練習が安堵と分かちがたく結びついているわたしにとって、練習を諦めるという選択は、不安と隣り合わせであり続けることを意味します。思い出すのが、同じスタジオに通うヨガ仲間との会話。彼女とはお互いコロナ禍を経てスタジオに復帰して「やっぱりスタジオで練習したいよね」と頷き合ったのですが、そこで自分の口からぽろっと出てきたのが「一人で練習していると下手になりそうで怖い」という言葉。自分で言っておきながら、あまりにネガティヴな響きに面食らいました。わたしには、一人で練習していると慢心して、大事なことを見落としたまま、できるできると猛進してしまうところがあります。だから、先生や同じクラスの人たちと一緒に練習して、それに気づく時間が大切なのだ、をまとめたのがその一言だったのです。もうちょっと言いようがありそうなものですが、前向きなつもりでいながら狭苦しいのがどこか自分という人間を言い当てているようで、訂正も撤回もする気になれません。対して、彼女は「スタジオでヨガをして安らぐ時間が好き」と言いました。のびやかでなんて素敵な人なんだろうか。

身の回りが落ち着いてきて、再びヨガの練習に時間を取れるようになってきました。振り返ってみると、心身がギチギチの状況で練習しているときは、しょっちゅう苦しい自問自答が浮かんでは消えしていました。わたしはなぜ練習しているのだろうか。わたしにはヨガができているのだろうか……。休んだ時間の分だけ、ぎこちなくなったポーズもあれば、筋肉痛にもなるのですが、心はちょっぴり軽いです。もういいや。できなくてもいい。あれだけ恐れていたはずの、練習から離れる怠慢が、すきま風のような優しさをもたらしてくれました。

今日のポーズは、ヴィパリータ・ヴィラバドラアーサナ(=戦いをやめた戦士)。