夏休みの原体験

いつの間にか夏休みの短さに不平を抱かなくなって、社会人生活が軌道にのったのを思い知らされる。社会人の夏休みは、短い。いつか過ごした長い長い夏休みの原体験が、そう感じさせる。もはや終わらない夏休みへの憧憬は薄れ、遊びで金がなくなる速度や、良いものを食べすぎて太る恐怖から、いつも1週間後には働きたくなってしまう。だが、それでも長い長い夏休みの原体験は、今でもわたしの思う「ほんとうの夏休み」であり続けているようだ。

わたしの思うほんとうの夏休みは、「ポケモンチャンネル」というゲームのなかにあった。初めてプレイしたのは、たしか中学生の夏休みだったか。このゲームにおそろしいほど惹かれたのは、ゲームのなかでやるべきことがほとんどなかったからだ。することといえば、自宅でポケモンたちが放送するテレビ番組を見るか、遊びに来たピカチュウと一緒に外へ出かけるか、くらいしか選択肢がない。もちろん、外へ出かけても野生のポケモンにただ挨拶をするだけで、ひと夏の心躍る冒険なんて始まらない。プレイ画面は主人公の一人称視点。どうやら一人暮らしをしているようで、テレビをつけたりピカチュウが遊びに来たりしない限り、誰も居ない部屋はいつもしんと静まりかえっている。

タスクもなければ、シナリオもなければ、いつまでプレイしてもゲームをクリアすることがない。世界はいつだって平和だ。夢のような生活ともいえる反面、永遠の命を授けられる拷問と紙一重ともいえるかもしれぬ。そんな世界観もまた、若き日の自分の気に入ったようだ。わたしは夏休みじゅう、特に理由もなくゲームをプレイしていた。運動部の厳しい練習から帰宅すると、すぐさまゲームキューブの電源を入れる。クーラーのきいた部屋で、ださいメガネをかけて、延々とゲームのなかで日常生活を送る日々。現実逃避をしているようで、実はゲームのなかの主人公と状況はほとんど変わらず、入れ子構造になっていたのではないか。

ゼニガメのテレビショッピングで家具を買い、ピカチュウと一緒にポケモンのアニメを見て、たまには外へも出かけてみる。もちろんほかの人間と交流する機会はない。わたしの長い長い夏休みは、そうやって無為に過ぎていった。ところで、実際の夏休みでもっとも多く占めていたのは、部活動の練習に参加する時間であったはずだ。ダラダラと汗を流しながら体育館を駆け回り、水を飲むだけですかさず先輩からサボっているとみなされる。今の時代なら事故にもつながりかねないと危険視されるような慣習がそこらじゅうに転がっている練習は、つらくない日が1日たりともなかったように思う。しかし、不思議なことにそんな部活動の時間については、今ではほとんど記憶がないのである。まるで24時間ゲームのなかで生きていたかのように、わたしの「ほんとうの夏休み」は、ピカチュウと過ごした永遠の夏休みのほうなのだ。