思い出が冥土の土産になるなら彼岸の砂利を踏んでも微笑う
欲張りで、仕合わせになりたい、と思うことがよくある。だが、その仕合わせというのが、居ても立ってもいられないような時間のなかに、ただ身ひとつを置くことを指すとしたら、ほんとうに仕合わせなときほど、わたしは猛烈に苦しんでいる。その仕合わせから離れるのがいやで。
ふたりの人間が、ふたりきりで生きるとき、互いの過去のすべてを話し、未来になにを期待しようと、結局増えるのは仕合わせの思い出ばかりである。それでこれからは、思い出を集めるために人生をやっている。欲の限りを尽くして集めた思い出を、冥土の土産にするために……。
思い出が、そのひとだけのもので、だれにも盗まれず、失われもしないというのは、ほんとうにそうだろうか? そんなうまい話があるとは信じぬ、どこかで没収されやしないかと、何食わぬ顔で懐に思い出を隠し持っている。こうしてずるをして生きる。なにひとつ持たないふりをして、ほんとうに価値のあるもののほうは、いつもちゃっかりと持っている。