岩を掴む左手のあと数手先には、頂上がちらと見えている。だが、ここから先へは身ひとつ動かすのも容易でない。焦りに任せて勢いよくのぼり、手をすべらせ落ちてゆくときの視界が脳裡をよぎった――否、イメージするな。崖のぼりピエロが着ける白い手袋のなかに、ほんの少し汗をかいていた。楽しいはずのサーカスで、ピエロが崖から落ちてはならない。フィナーレを待ち構える観客のざわめきも、今はちっとも聞こえなかった。ぼくは最後の冷静さを呼び戻すために、しばし立ち止まっている。 浮かんできたのは、ヨーガの師匠のことばだ。お前の呼吸に耳を傾けろと――ぼくは息をしている。そこで速まりかけた鼓動に気づくやいなや、スーと吐き出すごとに懐かしい静寂が訪れて、岩を掴む両手を新しい目で見ている自身がいる。ただ右手を離さずに、左手を移動させる。見えない左足で、体重を乗せられそうなくぼみを見つける。右手を軽々と移動させる。見えない右足で足場を探る。危ない橋などひとつも渡らない。するべきことを、順番にひとつずつ。立ち止まっていた体がひとつ動いた。ぼくは息をしている。左手、右手、左足、右足。 岩を掴む左手がついに頂上のなだらかな面に触れた。息だ、息をしている。深く腕を引っかけ、親しんだ自身の体重をいつものように持ち上げると、やすらかに胴体を横たえた。「スカーサー!」「スカーサー!」「スカーサー!」喝采がガラス張りのサーカステントを駆け巡り、目にも見えそうなほど渦巻いている。昇りはじめた陽の光が頂に差し込んでいる。忘れていた筋肉の緊張が、横たわった体を強く押さえつけ、べったりと地に貼りついている。ほんとうはじっとしていたかったが、最後にひとつだけ無理をいって、ひょいと立ち上がった。 ピエロは観客のほうに向き直り頭を下げる。「スカーサー!」「スカーサー!」「スカーサー!」お待ちかね、断崖絶壁のぼりは大成功。何事もなかったかのように笑顔の化粧で客席を見下ろしながら、心のうちでそっと自身に喝采を送った。 (ぼくもスカーサー!)